「教養」とは何か

「教養」とは何か
図書館で借りてきた阿部 謹也先生(元一橋大学学長)の書かれた本です。
その中で言われていることについて書きたいのですが、なぜこんな難しい本を手にしたのか。

それは、親として子育てで日々悩みが尽きないからと言いますか…。

我が家では小学4年の娘と3年の息子に進学塾に通わせています。
それは両親それぞれに考えがあって、私学や中高一貫校に進むことを視野に受験できる態勢を選んだからです。

私は自分自身が高校まで公立校に進学したので、高校受験も塾に通うでもなく勉強はしませんでした。地方はどこもそうでしょうが、長崎も九州の最西端の地方県でおのずと進路は生徒自身の学力によってある程度決まっていました。
何も考えずともある程度の成績なら必然的にその学校へと進学するのです。行った高校は県下でも有数の進学校でした。勉強に遊びにと充実してましたが、もともと勉強をする習慣がなく自分の進路も真剣に考えていませんでした。ですが、1年から進路指導があり学校の進学率UPのために常に国立大学の紹介をされ、でも受かりそうな国立は辺鄙なところだったので、勝手に関東の大学を受験しそこに受かったからと進学しました。

実家は製菓業を営み、親は子供の教育や進路に全く口出しをしませんでした。勉強しろと言われた記憶がありません。
ただ商売人の家では長男(弟)が跡を継ぎ、女は自由(ある意味どうでもよく)でいずれは私も他県のお菓子屋さんと結婚して商売人として店を盛り立てるものだとおもっていました。とはいえ、高校2年の時に同級生から誘われたアメリカへのホームステイが、修学旅行の途中に日程がぶつかったとき、友人は取りやめ、更に学年主任や担任の先生の反対があったにもかかわらず、子供が今しか体験できない異国での交流験を親としても望んでいるし、何と言っても面白そうだし、娘が行きたいのだから行かせてくれと学校と交渉してくれる親でした。

子育てしながら大学院に行きたいと初めてみんなに相談した時、行きなさいと背中を押してくれたのも実家の親です。
今の私があるのも、勉強より実体験が人を成長させる。自分の決めたことはしっかりやらせる。を実践して子育てしてきた親のおかげだと思っています。

翻って自分の子育てなると情報過多で何がいいのかよくわからない。

未だに受験するための通塾やそのために時間が割かれることが本当に必要なのか考えることがあります。
つまり自分の子供時代は教養を意識せずに歩んできたからです。
でも子どもに「何のために勉強しなきゃならないのか」と聞かれて説明するとき、様々な場面で自分で判断できる知識と教養が必要だからと言い聞かせてるのです。時代も変わり、少子化が進む中で優秀な人材が外国からも入ってきます。グローバルな社会に生きる子どもたちは、私たちの時代と状況が違ってきています。それに私たちには、やりたいことをやらせてあげるだけの経済力もないので、自分で切り開く力を与えることが親の役割だと思っています。

ではその教養とは何か。

すみません長い前振りでした。で、借りてきた本に戻ります。

内容は難しく、簡単に要約するとまるで大学のレポートのようですが、

例えば昔の時代、農業に従事する人にとって教養とは、自分たちが社会の中でどのような位置を占めているのかとか考えをめぐらすことがなくても、自分たちがそうすることで食糧を作り、それで人が生かされているということを知っていたのである。それを伝えるためにはもう一つの教養である文字が必要で、そのためには長い歳月がかかったが、彼らはこうしたことを身体で知っていて「いかに生きるか」という問いも必要ではなかった。こうした人々の人生に向かう姿勢を教養といえる。

阿部先生はこの前に「世間とは何か」を書かれていてそれとの関連もあってのまとめに、

教養があるということは最終的にはこのような「世間」(文中には世間と個人、建前と本音などもう少し詳しく書いてあります)の中で「世間」を変えていく位置にたち、なんらかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人のことをいう。といわれています。

私は夫に「君には教養がない」と、もうずいぶん前に言われたことがあります。
夫にもあるのだろうかと思いもするけど、私にはやはり教養が足りないと思った次第です。


さあ、そろそろ県連の躍進の集いに出かけてきます。