経済的豊かさとGNH(国民総幸福量)

 日本は戦後経済至上主義により目覚しい経済発展を遂げてきた。「国民所得倍増計画」のかけ声のもと、労働者は終身雇用に支えられて消費が伸び多くの国民が「一億総中流」であるといわれた。人々は経済的豊かさが幸せの尺度であると信じていたのである。その労働力に支えられやがて日本は世界で第2位の経済大国となる。しかし、豊かさは競争を産み、コミュニティを壊していった。日本での自殺者は総数3万2千人のうち、経済的理由での自殺が8千人(厚生労働省自殺死亡統計の概況より)にのぼり、働く事に意欲をもてないニート64万人(平成17年労働白書)という発表がある。経済至上主義の歪みが露呈してきたといえるのではないか。経済的豊かさは本当に幸福なのだろうか。「日本はとても豊かな国である。しかし日本は人々の心の貧しい国でもある」といったのはかの有名なマザーテレサである。
1997年6月、私は矯風会の支援プログラムの視察にフィリピンのスラム街を訪ねた。国の開発のために郊外に移転させられた貧しい人々は、土間の上に掘立て小屋を建て、雨風をしのぐだけの家に住む生活を送っていた。郊外のスラムには雇用がないので子どもたちがゴミの山から再利用できる資源を集めてはお金に換え、そのわずかな収入で食べ物を買い生活している。矯風会はそういう働き場のないスラムの女性達に技術指導し手芸品を作らせ、それを日本で売る支援を行っている。わずかな賃金しか手に入らないが、そのお金は子どもに教育を受けさせるために使うそうだ。彼らは貧しくとも、助け合ってコミュニティに依存しながら生きるために前向きであり、何より印象的だったのは子どもたちの笑顔である。国民の85%がクリスチャンであることも理由かもしれないが、国内の貧富の差を理解しながらそれを受け入れて生きている。それはあきらめではなく、与えられる仕事に感謝し日々の生活を送れる喜びを享受しているのである。つまり、自分の幸せの尺度は物質的なものだけでなく精神的な充足が重要であり、そこにある連帯感や文化などは生きていく支えになるのである。開発の影であるスラムコミュニティから学ぶ事は多い。
発展途上国であるブータン君主制を敷き国民の多くがチベット仏教を信仰している。開発の原則をGDPに対置される概念として国民総幸福量を重視するという政策を掲げている。過度に経済重視するのではなく、見落とされがちな民意や伝統文化、自然環境など多様な概念を重んじ、国民の幸福に資する開発を提唱している。これからの発展はただ経済重視による開発では幸せに直結しないことはわが国の自殺数を見ると明らかである。日本もアジアの主導国を目指すならば、豊かさの影に注視し、偏ったナショナリズムではなく、日本人の守ってきた文化やコミュニティを改めて見直すGNH政策が必要であると考える。