人として

人として自分がどれだけ成長したかと考えていたら、退化していることに愕然としました。

昨日、ある方から柳田邦男(ノンフィクションライター)の記事をぜひ紹介したいということで、新潮45 3月号を受け取りました。そこには映画「風のかたち」
http://www2.odn.ne.jp/ise-film/ise2/kaze.htm

の素晴らしさと、障碍を持つ子の優しさについてつづられていました。

子どもの感性は大人の考える以上に繊細で、親はその子どもの感性に気づけないほど(子どもを忘れている)大人になってしまっているんだなと思います。

書かれているエピソードは、
知的障碍のあるお養護学校に通う女の子が仲良しのお友達に「ごめん、もう遊べないんだ、遊んじゃいけないって、ママに言われたから。一緒にいると馬鹿になるって」と言われたそうです。女の子はその言葉の重さを理解できなかったのか「じゃあ、またね」とニコニコして手を振って別れました。お母さんはそれを見ていて「ああ、この子は言葉の意味がわからなかったんだ。この子は友達を失い、もう遊べないんだということに気づかないのだ」と思うと子どもの言葉の残酷さに心がボロボロに傷つき、精神的に不安定になったそうです。それから半年後、授業参観があった時のこと、娘さんの書かれた作文発表で「あっちゃん(友達)が、私を馬鹿だといった。私はそれを聞いたママがかわいそうでした。私が馬鹿だから、ママが悲しみました。私のママは綺麗で優しい人です。ママを悲しませないでください。」
お母さんはこの日を境に、強い母になろうと決心したといいます。

…書きながら涙がこぼれます。

子どもは大人以上に人を見て自分の鋭い感性で思いを感じるのですね。

わが子のどうにもならない後遺症から来る言動に、正面から受け入れているつもりでも、仕方ないことであきらめなければならないと自分に言い聞かせていることがあります。先日も事故前のビデオを子どもと見たとき、「あの頃はこうだったね」と成長を比較するつもりで言っても子どもには事故前のことを言われていると感じさせたかもしれない。

子どもは一生懸命自分と周りを調整しながら子どもの世界を生きているのです。
親はその子を更に包むだけの寛容な気持ちと感性で育ちを見守っていかなければならないのでしょう。

私は人としてまだだなと思いました。